2019年6月1日土曜日

モッコ 来たる!

 震災以降、沢山のアーティストが東北を題材に作品を製作し、パフォーマンスを披露している。その多くは出発点が3.11であり、まるで東北の時間が3.11で引き裂かれたかのような錯覚を覚える次第である。3.11とそれに伴う福島第一原子力発電所の爆発事故がスタートであれば、作品は鎮魂と復興に向かう他なく、東北の未来に収斂していくのは必然であり自然な事だし、それ自体は決して悪い事ではない。ある意味その典型といえるのが「サンチャイルド」の一件であろう。もちろん作者の制作意図を批判するつもりは毛頭無いし、私自身はそれを撤去する必要は無かったと思う。ただ、ヤノベケンジですら、原発事故と福島の未来というステロタイプのビジョンしか持てなかったことは、いささか残念ではあるが。

 さて、新聞で東京2020の関連事業としてモッコと呼ばれる巨大な操り人形が制作され、その雛形が東北絆まつりに展示される事を知り、写真を見てこれが東北の具現化であると直感した。モッコは特に北日本に行くと、子どもを捕る魑魅魍魎の意味をもつ。いいじゃないか。東北の闇の復権だ。キズだらけでぎこちなく、巨大。素晴らしいじゃないか。東北はすっと虐げられて来た。だがそれは東北が矮小で野卑である事を意味しない。東北は大きく、力強く、そして戦ってきた。東北は東北である事に意味がある。日本が近代化を目指し、中央の文化が日本を飲み込もうとしたときに、柳田國男は遠野物語を著し、南方熊楠は神社合祀に反対したのだ。地方には地方の文化がある、と。だから我々は東京五輪だからといって、トウキョウにおもねった優しく哀れで美しく我慢強い東北である必要はない。地方には地方の光りがあり、闇があるのだ。





盛り上がりを強制するかのような祭りの同調圧力を軽蔑し、列ぶことを極力忌避し、被災地を食い物にするモンキービジネスを嫌うわたしが、その真っただ中に身を投じたのはただ一つ、モッコを自分の目で見届けたかったからに他ならない。



 中央の価値観では測りきれない、大昔から遥か未来まで東北に流れる時間の中から生まれたものモッコは、そんな東北の象徴にみえた。それは、沢則行という感性が恐らくは北海道を含めた北の歴史と同調し、記憶を呼び覚まし、その魂に姿を与えたのだと思う。これは復興ではなく、復権である。そして今、僕は大きな声で叫びたい。


この巨偶をして、平地人を戦慄せしめよ!